2012.3/20「惰性。」

昨日も寝落ちてしまった。ここの所、中だるみ的な状況になっている。改める。

今日は、「惰性」についての話。今までも何回か書いてきたが。

休む・だらける=惰性 ではない。

意識して行動をしない事=惰性 である。

だから、「最近休む間もなく動いているから、今日は徹底的に寝る。」と決めて1日を過ごした場合、これは全く惰性ではない。

「何か疲れたなー、もう一眠り....」これは、妥協であり、惰性である。

全力でストイックに過ごしている中で、意識的に決定した事は惰性ではない。

怖いのは、意識せずにダラダラとした生活習慣が身に付いている事。そしてその生活習慣を自分の中で正当化してしまっている事。つまり、惰性が当たり前になっている状態である。

常に思考して、意識的に行動する。そのためにこのブログも書いている。

2012.3/18「人として生きる。」

昨日は、寝落ち(良くない。中だるみ。)したため、書かなかった。

「人として生きる。」これは、今日友人と話しながら考えた事だ。

大きく別けて3種類の人としての生き方があると思う。

 

1. 普遍的な事を追求する。

これは、例えば宇宙の真理、物質の仕組み、自然の仕組み、動植物...などの追究、要は俗にいう研究者という生き方である。

普遍的な、曖昧な事を歓迎しない、物事の追究・研究。人の知的好奇心から生まれる生き方。

2. 人にインパクトを与える生き方。

経済、法律、社会、文学、芸術、発明、教育...これらは、まとめて人に関係する学問である。(芸術とは普遍的...ではない。)

例えば、携帯電話を開発する、法律を作る、文学でベストセラーを出す、新たな金融のシステムを作る、新たな時代の教育を押し進める...全て、人にインパクトを与える生き方だ。誰かに影響を与える生き方だ。

例えば、携帯電話によって人のライフスタイルは大きく変わった、1つの小説によって多くの人が感化された、新たな金融のシステムで経済の流れが変わり結果的に人の働き方を変えた...

大多数の人は、この、人にインパクトを与える生き方、を目標として生きていると思う。各々の分野で。

3. 歯車となる生き方。

もちろん、世界には、宇宙の真理を研究する人や、何か発明や創作したり、社会のシステムを作る人ばかりではない。むしろ少数だ。

では、残りの大多数はどう生きているか?

それは、他人の歯車となる生き方だ。自分自身に特に志も知的好奇心もなく、日々暮らしてゆければいい。極論、3大欲求で動いてる人々だ。

しかし、これらの人々を否定は出来ない。この様な大多数の人々で人間社会はなりたっている一面もあるからだ。ブームなどは、その典型である。大衆というものが無ければ成り立たない。

 

これらの3つの生き方。私は当然1か2で生きていきたいと思っている。私の場合は特に2だ。

そして、願わくば、全ての人が1か2の様な心持ちで生きていけば、人間社会はより面白くなると思う。将来的に自分がその人間社会の実現に少しでも協力出来れば良いと思う。教育等の分野で。

せっかく人として生まれて来たからには、そう生きていきたいと強く思う。

2012.3/16「継続。」

昨日は、1日アルバイトが入っていて、行動するべき事が積まれていたので、ブログは書かなかった。

今日も手短に。

「継続。」

私は、大学4年間という時間、気に喰わなければサークルもバイトも止めていいと思っている。我慢して、つまらない事を続けるのは時間の無駄だと思っている。

忍耐力をつけるための大学生活ではない。あらゆる事を体験して、幅広い世界•社会•人を知るための大学生活だと思っている。

しかし、だからと言って投げ出す事はワケが違う。

全ての決断を、自分の意思と責任でする。これが大事だと思う。

つまり、例えば2ヶ月間は全力でやってやると強く決めた事を、1ヶ月で投げ出したらただのヘタレだ。

そうではなく、継続して努力する時は努力する。幅広く経験したい時は幅広く手を出す。

自分の意志で決断をする。惰性で過ごしていかない。

まぁ理想は、幅広く手を出して動きながらも、時間を上手く使いその時々決めたテーマに向かって全力で努力する。

理想。

2012.3/14「行動。」

考えているだけで、行動に移さない。これは、論外。

行動に移すけど、考えが足りない。これでは、成長がない。

考えて考えて、行動する。時間は有限、何かしている気になっているだけ。

考えて、行動する。良い。

行動しながら、考える。完璧。

 

理想は、行動しながら、考えていく事。理想というか、これを毎日続けて行かなくてはいけない。

つまり、目の前の事に全力で取り組みながら、常に思考を止めない。

目の前の事に時間を費やした上で、少しでも時間に隙間があるのならば、行動するべきだ。さっさと思考して、さっさと行動する。

 

例えば、アルバイトを1つ変えたい。何か面白いアルバイトをしたい。そんな時に、あらゆる選択肢を検討しすぎて動けないよりは、的を絞って探してすぐ行動に移す。時間の隙間を埋める。ずっと隙間が空いたままではもったいない。

例えば、経済学部の業界研究•ゼミ説明•講義説明などの書類を読む。選択の幅が広過ぎて、興味ある分野が拡散し過ぎていて、頭がクラクラする。そんな時でも、まず、今出来る行動をする。短時間真剣に思考して、悩みすぎず、行動する。時間を有効に使う。

 

時間の隙間を埋めて行くことで、キャパシティも広がる。体が軽くなり、行動に移しやすくなる。

立ち止まって考えるより、動きながら考えた方が、次のステップにも繋がり易い。何故なら、動き続ける事で、何かしら日々成長していくからだ。

「絶え間なくインプットしていく。」

2012.3/13「目標。」

「目標。」弛まぬ努力を続けていくためには、目標というゴールが必要だ。

目標というゴールは、個々のビジョン(未来像。方向性。こうありたい•こうなりたい自分。)によって決まり、1つ1つのミッションをクリアしていく事によって到達出来る。

「目の前の事に全力で取り組む。」事は、場合によっては、目標というゴールへの最短ルートでは無いかもしれない。その前にそもそも、目の前の事に取り組んでいる間は、明確なゴールは見えていないのかもしれない。

私は、目の前の事に全力で取り組んでいる間は、明確なゴールが見えていなくても構わないと思っている。(19のこの時期には。)

ゴールを無理に決めようとすると逆に自分の可能性を狭めてしまう。小さな枠に収まってしまう。

今日読み返した、ティナ•シーリングの「20歳のときに知っておきたかったこと」からラリー•ペイジの言葉を引用する。

「出来るだけ大きく考えるのです。小さな目標を決めるよりも、大きな目標を掲げた方が楽な事が多い。小さな目標の場合、達成する方法は限られています。それをはみでると上手くいきません。これに対して、大きな目標であれば、時間や労力をかけるし、達成する方法も多いからです。」

確かに、明確なゴールがある方が気持ち的には楽だ。司法試験、国家試験...膨大な時間を費やすが、ゴールは明確だ。

しかし、私は、大きな目標•ゴールを持ちたい。たとえ、今は明確に見えなくても、目の前の事に全力で取り組んでいるうちに、ビジョンが少しずつ掴めてくる。そして、いつかは大きな目標•ゴールが見えてくる。

ぐだぐだ考えている時間はない。明日の自分を作るのは、今の自分なんだ。今、全力で取り組んでいる目の前の事は、自分にとって楽しくて好きな事のはずだ。それを疎かにして、次に進んでも、それは前進ではない。

そのために、毎日、短期の目標(今取り組んでいる事の中で。)を定めるのは重要だ。

さらに、このブログを書いている理由でもあるが、日々の弛まぬ思考も欠かしてはいけない。

ビジョンとミッション。今、全力で取り組んでいる事が、後々振り返ると必ずミッションになっていたはずだ。

(文章雑)

2012.3/10「自己満足について。」

今日は、日々のモチベーションと絡め、「自己満足について」思考してみたいと思う。

ある段階で自己満足しなくては、ツライ。だから自己満足する、今存在している自分を正当化する。簡単に自己満足できる人は、基本的には楽しく生きられる。しかし、大きな成長は無い。

大きな成長は日々の小さな成長から。

日々の小さな成長は、「自己満足に至るまでの道を険しくする。」事からだと思う。

例えば、今日は朝ちゃんと起きて、新聞読んで、アルバイトして、規則正しく寝た。そんな1日があったとする。そんな1日に自己満足を感じれるとする。それはそれでいい。だが、その人がそれと同じ様な1日でずっと自己満足を感じられるのならば、成長は無い。

毎晩、1日を振り返る。この日はまぁまぁ頑張ったな。だが、ボーッと考えてる時間も長くて、頭使った気になってるところがあるな。その時間を読書や勉強に費やして、より1日のインプットを増やしていきたいな。

このように、日々、自分の自己満足に至るまでの道を険しくする。

これらの事は、最近考えている、「目の前の事に全力で+日々の思考」という根本的なテーマに通ずる。

つまり

今日の全力で今日の自己満足は得られたとする。

それでも、今日の思考•反省をしっかりとする。

そして、明日の全力は今日以上、明日の自己満足も今日以上、に変えていく。

こうして成長していく。魅力をあげていく。

2012.3/9「発想と勉強。(デザイン脳とは)」

2月中旬から3月まで、特に3月イッパイはデザインの作業に本気で取り組んでいくつもりだ。

そこで、タイトルにある「発想と勉強」について少し考える事があったので、今日の思考のテーマにしたい。

ここでいう勉強とは、暗記や論理的理解を軸とした勉強の事を指す。まぁつまり学校で学ぶ勉強である。

早速本題に入る。

発想とは、勉強と同一ではない。勉強と違い、がむしゃらに頭に詰め込むだけでは良い発想は生まれない。

例えば、仕事で疲れて帰ってきた深夜、精神的にやる気に満ちあふれ、カフェインを摂取して眠くもない、という時でも良い発想が生まれない時は生まれない。本当に全くといって良い程生まれないのだ。

これは、前回「睡眠」をテーマに書いた記事(3/8)と重なる所がある。睡眠の場合は、自分の睡眠欲=3大欲求と上手に付き合う事は妥協ではない。と書いたが、発想の場合も同じである。良い発想が生まれない時は、自分の脳みそと上手に付き合うのだ。つまり、さっさと翌日をイメージしつつ寝ればいいのだ。

そもそも、良い発想が生まれるための条件(ここではデザイン脳と呼ぶ)は、複雑だ。勉強の様に、知識を積み上げ、筋道立てて考えるだけでは足りない。これらにプラスで、あらゆる面から物事を捉える思考力(これによって真新しい奇抜な発想が生まれる)、今まで得てきた•見てきた知識を上手く引き出して繋げる能力...ザッと考えてみても、良い発想を生むためにはこれだけの能力がプラスで必要なのである。

ただ、ひとつ確かなのは、発想力を高めてデザイン脳を強くするには、多くの勉強が必要だということだ。分厚い勉強の土台があって初めて良い発想は生まれるのである。理想は勉強と十実践を並行的に繰り返す事だが...99%の人は才能が無いにも関わらず、自分はひとりの力で発想できると勘違いをしている。この勘違いは悲惨だ。

(夜に書いたが、寝落ちしたため、朝更新)